『むぎの穂童話』に掲載されたお話をこちらでご覧いただけます。

『むぎの穂童話』から

毎月第3日曜に発行している『むぎの穂童話』に掲載されたお話を紹介するコーナーです。
今回は、2010年5月〜6月に2回にわたり連載した『殯宮(もがりのみや)伝説』です。
小郡市大保にある御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)にまつわるお話です。


殯宮(もがりのみや)伝説―御勢大霊石神社縁起  第1回

文・田熊正子 絵・秋吉ヤス子

 遥かに遠い太古の昔、宝満川はまだ有明の海に繋がる入り海であったのでございます。 その海の中に突き出た岬には、鶴や鴨などの渡り鳥が飛来し、鶴崎と呼ばれておりました。

 北には絶えず浜風が訪れる吹上があり、浜千鳥が遊ぶ干潟が続いておりました。 波の彼方には津古の船着場や、横隈の入江があり、下って大崎の岬から南に堂嶋があり、 遥かに遠く、八丁嶋、千代嶋、塚嶋などが点々として、海の上に浮かんでいたころのお話でございます。

 申し遅れましたが、私はここ御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)の森で世の移り往くさまを見て参りました イチイの木の精でございます。

 その頃、倭(やまと)の朝廷は朝鮮半島を統治していて、その策源地はここ筑紫にあったのでございます。 ところが半島では、勢力を伸ばしてきた新羅が、 百済や高麗を圧迫して遂には、わが任那(みまな)の日本府を滅ぼさんとしておりました。 任那の日本府の救援要請を受けた倭朝廷は、救援を出すことにしたのでございますが、 朝廷の策源地が筑紫にあることを知った新羅は、狗奴国の後身である熊襲(くまそ)を唆して攪乱を計ったのでございます。

 仲哀天皇の八年(199年)正月のことでございました。 天皇は男装をされた皇后の気長足姫尊(おきながたらひめのみこと)とともに出陣されて、筑前の香椎にご到着になり、そこを本陣とされました。

 翌九年には、筑前朝倉山岳地帯に勢力を持つ熊襲羽白熊鷲征伐をするために、 御笠郡をご通過になり筑紫路に入られました。 そして、宝満川の流れに程近い清浄なる地、ここ長栖(大保)に軍を止め給いこの地を仮宮とし、 神々を祀られた後に軍を指揮されたのでございます。

 その折りのことでございました。高御産巣神(たかみむすびのかみ)という宇宙の生成力を神格した神が鷹の姿で現れて、 北に飛び立ち横隈の入江の松の梢に止まったのでございます。 天皇はすぐに、その場所に鷹をご神体として祀られて、「隼鷹(はやたか)神社」と命名され戦勝祈願をなされました。

 羽白熊鷲の砦は、秋月古処山の麓、野鳥にありました。皇后はすぐに、物部軍を指揮され給いて、 層増岐野(夜須町安野)に至り、近臣を従えて山に登り、敵の行動を窺ったので、 後にこの山のことを住民たちは「目配山(めくばりやま)」と申すようになりました。

 戦いは山岳地帯から平地へと展開し、最後は河原(三奈子荷原)の激戦で、 白羽熊鷲が戦死、残党も成敗されて、加担していた農民はクモの子を散らすように分散し、 一ヶ月にもおよぶ戦いは終わったのでございます。 三奈木矢野竹村には、羽白熊鷲が埋葬されたという塚が残されてございます。

 その激戦中のことでございました。 仲哀天皇は一日、近臣を従えて軍の士気を鼓舞せんとて、前線を巡視し給い、 夕暮れとなりご帰還の途中、不幸にも敵の毒矢に当たり給い倒れられました。 近臣たちは驚きすぐさま仮宮にお連れして、ご看護をいたしましたが、 かなわずその日の内に崩御されたのでございます。

 皇后は激戦中のこととて、皇軍の士気を失う事を恐れ、崩御を深く秘して、 長栖の森の中に殯葬されたのでございます。 今現在「御本体所」として称されている場所でございます。

 悲しみの神功皇后は憩う間もなく、山門郡東山の砦を根拠としている熊襲、 土蜘蛛田油津姫の率いる土蜘蛛一族討伐のため、宝満川の舟着場である津古村から、船子の案内で南下されました。 土蜘蛛一族は、地の利を背後に山岳戦で抵抗し戦いましたが、皇軍を前に勝ち目はなく、 とうとう降伏し残党は肥前方面に逃走したのでございます。