『むぎの穂童話』に掲載されたお話をこちらでご覧いただけます。

『むぎの穂童話』から

毎月第3日曜に発行している『むぎの穂童話』に掲載されたお話を紹介するコーナーです。
今回は、2010年5月〜6月に2回にわたり連載した『殯宮(もがりのみや)伝説』です。
小郡市大保にある御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)にまつわるお話です。

第1回はこちらから
殯宮(もがりのみや)伝説  第1回


殯宮(もがりのみや)伝説―御勢大霊石神社縁起  第2回

文・田熊正子 絵・秋吉ヤス子

 ご凱旋の道程は、大善寺付近から筑後川を逆のぼり、宝満川を北上して 深水(ふかみ)の船着場であった神磐戸(かみいわと・上岩田)の津に上陸されました。 熊襲を討伐して筑紫を平定された神功皇后は、お腹に御子を宿しておられたのにもかかわらず、 朝鮮半島の救援に向かうための計画をたてられたのでございます。

 まず海の交通の要衝であった磯鹿(しか・志賀島)の海人に偵察をお命じになられました。 それから手漕ぎの船二十五人乗りの軍船を四百艘そろえられたのでございます。 御座船には石を以って天皇の身形代となし甲冑御衣を着せ参らせて、和珥津(わにのつ・対馬)から船出をされました。

 そしてその軍船が新羅に近づいた時のことでございます。 海の潮がいっせいに国中を襲い押し寄せたそうでございます。  新羅王は恐れ驚き気絶し、しばらくして回復すると、 「東に神の国あり、ヤマトと言う、かならずやその国の神兵たらん」と白旗を持ち、 神功皇后の前に平伏服属したのでございます。

 皇后は再び凱旋されると、長栖に立ち寄られて、 初めて仲哀天皇の崩御を発表されました。 殯宮に安らぎ給う御霊柩を香椎の本陣に移され、代わりに身形代の霊石と剣を納められて、 「御勢(みせ・おっと)の大霊を奉祀たてまつる」と宣言されたのでございます。

 されば殯宮とは喪に服している間に、遺骸を安置して置く仮宮のことを言い、 日常では行われない、異常かつ急な状態にあることを示した風習でございます。

 これは神功皇后摂政2年(202年)の11月のことでございました。 皇后はまもなく、筑紫の宇瀰(うみ・宇美町)で応神天皇をご出産になり、二六九年まで政務を続けられました。

 さて、社殿創建についてでございますが、そのころ倭では、 山、神木、霊石がそのまま神が宿る霊場とされておりました。

 社殿の建造は後の世になって、大陸から伝教が伝来して寺院を建て、 御本尊仏を明示したので、その影響を受けてからのことにございます。

 御勢大霊石神社はその後、11月14日を例祭日として、15代応神天皇、16代仁徳天皇、 17代履中天皇へと代々引き継がれて、大祭には都から勅使が参宮されました。

 社殿が建造されてからこれまでの長い年月、いくたびも災害や戦禍で焼失いたしましたが、 その度ごとに、領主の御加護があり、再建されて参りました。

 住民たちからは、由緒ある神社として敬われ、鎮守様として親しまれて今日に至りました。 奈良時代に筑前国守として大宰府に住んだ山上憶良が詠んだ「好去好来歌」に、次のような歌が残されてございます。されば

  「神代より言ひ来(け)らく
  そらみつ 倭(やまと)の国は
  皇神(すべかみ)の いつくしき国
  言霊(ことだま)の 幸(さち)はふ国
  語り継ぎ 言ひ継がひけり」 と。

 いつくしき国とは、筑紫国(つくしのくに)とも申し、「尊厳な国」という意味で、 大和朝廷からいたく尊敬されて名付けられた国の名であったのでございます。

 それでは、これにて私の御勢大霊石神社縁起についてのお話を終えさせていただきますが、 もう一言つけ加えますれば、 瀬高(みやま市)にございます廣田八幡宮の祭神は応神天皇であらせられます。 またその対岸にある聖母宮には、神功皇后が祀られているのでございます。


参考資料



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